Masuk翌朝、俺はソファの前で仁王立ちしていた。
目の前には、白いパーカーの少女が眠っている。 白瀬こはる。 昨夜、雨の中で倒れていた女の子。 そして、たぶん――いや、ほぼ確実に、大人気VTuber「月乃こはね」の中の人。 問題は、その事実を俺がどう扱うかだった。 扱い方を間違えたら、たぶん終わる。 俺は炎上経験者だ。 ネットで人間がどう壊されるか、多少は知っている。 だからこそ分かる。 こはるの正体は、ただの秘密ではない。 それは彼女の生活であり、仕事であり、逃げ場であり、首輪でもある。 そこに、見知らぬ男が「いつも見てます」なんて顔で踏み込んだら、もう人助けではない。 ただの暴力だ。 だから俺は、決めた。 月乃こはねのことは、知らないふりをする。 完璧に知らないふりをする。 どれくらい完璧かというと、月乃こはねが毎週木曜二十一時にやっている雑談配信で、リスナーのことを「夜更かし月うさぎさん」と呼んでいることも、初見詐欺が来ると「初見さんじゃない匂いがしますねえ」と妙な圧をかけることも、ホラーゲームで怖くなると画面端のマスコットを盾にすることも、全部知らない。 知らない。 俺は何も知らない。 そう自分に言い聞かせている時点で、かなり知っている。 「……最悪だな」 俺は小さく呟いた。 推しの寝顔を見ている状況そのものが、もう最悪だった。 いや、別に変な意味ではない。 そういう話ではない。 ただ、距離感が難しすぎる。 画面の中の推しは、あくまで画面の中にいるから尊いのだ。 現実に、雨で濡れて、顔色が悪くて、ソファで毛布にくるまって眠っていると、尊いとか言っている場合ではなくなる。 飯。 水分。 着替え。 病院。 連絡先。 安全確認。 推し活ではなく、保護である。 俺はスマホを見た。 午前七時十三分。 昨夜から数時間しか眠っていない。 ソファをこはるに譲ったので、俺はカウンター席で腕を組んで仮眠を取った。結果、首が終わった。 首が終わった元ゲーム実況者。 登録者八十万人からの転落先として、なかなか味わい深い。 「……ん」 ソファの方から、小さな声がした。 こはるが、ゆっくり目を開ける。 その瞬間、俺は反射的に一歩下がった。 寝起きの人間に知らない男が覗き込んでいたら、普通に怖い。 自分で自分を通報したくなる。 「起きたか」 俺が声をかけると、こはるはしばらく天井を見つめていた。 そして、見知らぬ天井、見知らぬ毛布、見知らぬソファ、最後に見知らぬ男である俺を順番に認識したらしく、身体をびくっと震わせた。 「……っ」 「待て待て待て。逃げなくていい。いや、逃げたいなら止めないけど、その前に立てるか確認しろ。昨日、路地で倒れてたんだからな」 こはるは毛布を握ったまま、固まっている。 大きな目が、俺を見ている。 警戒。 恐怖。 混乱。 少しの羞恥。 それらが全部混ざった顔だった。 「ここ、喫茶こもれび。覚えてるか? 昨日、雨の中で倒れてた。俺が店に運んだ。ココア飲んだ。潰れかけって復唱した」 最後の一文で、こはるの眉がほんの少し動いた。 「……言いました」 「そこは覚えてるんだな」 「……すみません」 「いや、事実だからいい。潰れかけなのは否定できない」 「……」 「ただ、初対面で言われると普通に刺さる」 こはるは、毛布に口元を隠した。 笑ったわけではない。 けれど、少しだけ空気が柔らかくなった気がした。 俺は椅子に座る。 立ったままだと威圧感がある。たぶん。 「体調は?」 「……分かりません」 「分かりません、か。便利だけど困る答えだな。頭痛い? 吐き気は? 寒気は?」 こはるは自分の身体を確認するように、ゆっくり瞬きをした。 「頭は、少し。吐き気は……ないです。寒いのは、少し」 「熱測るか」 「……熱」 「そう、熱。人類が体調不良の時にとりあえず測るやつ」 「……持ってるんですか」 「喫茶店にだって体温計くらいある。風邪引いた客が来る可能性もゼロじゃないし」 「喫茶店に、風邪の人……来ますか」 「来ないでほしい」 休憩室の棚から体温計を取って渡す。 こはるはそれを受け取ったが、なぜかじっと眺めていた。 「脇に挟むタイプ。使い方分かるよな?」 「……分かります」 「疑って悪かった」 こはるは少しだけ視線を落とした。 「……最近、そういうのも、マネージャーさんが」 言いかけて、口を閉じる。 俺は聞き返さない。 聞き返したら、彼女はたぶん、また閉じる。 こはるは体温計を挟み、毛布にくるまったまま黙った。 その沈黙が、妙に長い。 気まずい。 こういう時、配信者時代の俺なら何か喋っていた。 沈黙を埋める。 間を作らない。 視聴者を退屈させない。 何でもいいからツッコミを入れる。 けれど、今ここには視聴者はいない。 こはるはコメント欄ではない。 俺が拾った、疲れ切った人間だ。 だから沈黙してもいい。 そう思っているのに、身体が勝手に喋りたがる。 「腹、減ってるか」 結局、俺は喋った。 沈黙に負けた。 俺の弱さである。 こはるは、少し考えてから答えた。 「……分かりません」 「また分かりませんか」 「すみません」 「いや、謝ることじゃない。じゃあ、食えるかどうかは別として、何か出す。喫茶店だからな。メニューだけはある」 「お金、あまり……」 「取らない」 「でも」 「倒れてた人間からモーニング代取ったら、さすがに叔父さんに化けて出られる」 「叔父さん」 「この店の前の店主。今は俺がやってるけど、元々は叔父さんの店だった」 「……そうなんですね」 こはるは、それ以上聞かなかった。 こちらが聞かないと、相手も聞かない。 変なところで律儀だと思った。 体温計が鳴る。 こはるはそれを取り出して、画面を見た。 「何度?」 「……三十七度二分」 「微熱だな。昨日濡れてたし、まあそうなるか。今日は絶対安静」 「絶対……」 「大げさに言った。店内安静でいい」 「……でも、私」 「帰るって言うなら止めない。ただ、今立って歩けるか試してからにしろ」 こはるは、少しむっとしたような顔をした。 たぶん、むっとした。 表情筋の動きが小さすぎて判定が難しい。 「歩けます」 「じゃあどうぞ」 俺はソファから離れ、道を空けた。 こはるは毛布をそっと外し、ゆっくり立ち上がった。 一秒。 二秒。 三秒。 膝がかくんと抜けた。 「おっと」 俺は慌てて手を伸ばし、肩を支えた。 軽い。 本当に軽い。 こはるは俺の腕を掴んだまま、顔を真っ赤にした。 体調のせいだけではなさそうだった。 「……すみません」 「謝罪禁止って昨日言った」 「……ごめんなさい」 「言い換え禁止とも今決めた」 「……はい」 「で、歩けるか?」 こはるは悔しそうに目を伏せた。 「……歩けません」 「よし。正直でえらい」 「えらくないです」 「えらいだろ。人類、自分の弱さを認めるのが一番苦手なんだから」 こはるは俺を見た。 その目が少しだけ揺れる。 「黒瀬さんは、認められますか」 不意打ちだった。 俺は言葉に詰まる。 認められるか。 自分が弱いことを。 自分が逃げたことを。 自分がまだネットを見られないことを。 通知音だけで手が震えることを。 認めているつもりだった。 でも、それを誰かに言えるかと聞かれたら、また別だ。 「……まあ、俺は棚上げの専門家だからな」 「棚上げ」 「自分のことは一旦高い棚に置いて、人には偉そうに言う。大人の基本技術だ」 「……よくないと思います」 「正論で殴るのやめろ。微熱のくせに攻撃力が高い」 こはるは、また少しだけ口元を緩めた。 俺は彼女をソファに戻し、毛布をかけ直した。 「朝飯、作る。トーストでいいか」 「……はい」 「卵は?」 「……はい」 「味噌汁は?」 こはるが固まった。 「……喫茶店で?」 「叔父さんの趣味だ。うちのモーニングはトースト、目玉焼き、味噌汁」 「合うんですか」 「合うと思えば合う。人生はだいたい思い込みだ」 「……雑です」 「喫茶こもれびの経営方針だ」 厨房に戻り、フライパンを出す。 卵を割る。 トースターにパンを入れる。 鍋に昨日の味噌汁を温め直す。 具は豆腐とわかめと玉ねぎ。喫茶店らしさはゼロだが、こういう飯の方が人間は戻ってくる。 焼けるパンの匂いが店に広がった。 こはるはソファから、ぼんやりこちらを見ていた。 昨夜より顔色は少しだけましだ。 それでも、目の下の影は濃い。 俺は皿を持っていき、ソファ前の小さなテーブルに置く。 「喫茶こもれび特製モーニング。特製という言葉は、特に意味がない時に便利だ」 「……いただきます」 こはるは小さく手を合わせた。 その仕草が妙に丁寧で、逆に痛々しかった。 彼女はトーストを持ち、端の方をほんの少しかじった。 噛む。 飲み込む。 少し止まる。 次に、目玉焼きを見つめる。 「醤油かソースか塩か」 「……え」 「目玉焼き。宗派があるだろ」 「宗派」 「醤油派、ソース派、塩派、何もかけない異端派」 「異端」 「ちなみに俺は醤油。叔父さんは塩。源さんはソースをかけてから『これは醤油の方がうまい』って言う意味不明な派閥」 こはるは、目玉焼きを真剣に見つめた。 「……分かりません」 「じゃあ半分醤油、半分塩にするか」 「そんなこと、していいんですか」 「目玉焼きに憲法はない」 俺は小皿に醤油と塩を用意した。 こはるは白身の端を箸で切り、小さく口に運んだ。 ものすごく慎重だ。 初めて食べるものみたいに。 「どうだ」 「……しょっぱいです」 「醤油だからな」 「……でも、嫌じゃないです」 「そりゃよかった」 こはるは次に味噌汁を飲んだ。 一口。 そして、そこで動きが止まった。 「熱かったか?」 こはるは首を横に振った。 「……味噌汁」 「味噌汁だな」 「久しぶりに、飲みました」 「そうなのか」 「コンビニのは……飲んだことあります。でも、こういうのは」 こはるは椀を両手で包んだ。 まるで、それがただの味噌汁ではないみたいに。 「……誰かが、出してくれた感じがします」 俺は返事に困った。 そういう言葉を、十九歳の女の子が朝飯の味噌汁に対して言う。 そのこと自体が、少し重い。 「まあ、出したからな」 結局、そんな馬鹿みたいな返ししかできなかった。 こはるは小さく頷いた。 「はい」 彼女はゆっくり食べた。 トーストは半分。 目玉焼きは白身を少し残した。 味噌汁は、時間をかけて全部飲んだ。 「残していいぞ」 俺が言うと、こはるはびくっとした。 「すみません」 「だから謝るな。うちの常連には、ナポリタンを半分残すプロがいる。トースト半分くらいで店は揺るがない」 「……佐伯さん」 「名前覚えてたのか」 「昨日、聞きました」 「記憶力いいな」 「……余計なことばかり、覚えます」 こはるは、残したトーストの端を見つめた。 「大事なことは、忘れたいのに」 その言い方があまりに静かで、俺は一瞬、聞こえなかったふりをしようか迷った。 でも、聞こえたものは聞こえた。 「忘れたいこと、あるのか」 こはるは答えない。 しまった。 踏み込みすぎたか。 俺は水の入ったグラスを置きながら、軽く言った。 「悪い。今のなし。店主の雑談サービスが過剰だった」 「……黒瀬さん」 「ん?」 「黒瀬さんは、忘れたいこと、ありますか」 今度は俺が黙った。 こはるは、まっすぐこちらを見ている。 さっきまで視線を合わせるのも苦手そうだったのに、こういう時だけ妙に逃げない。 困る。 「山ほどある」 俺は正直に答えた。 「山」 「山脈だな。黒瀬忘却山脈」 「……名前、ださいです」 「俺も今そう思った」 「忘れられますか」 「忘れられないから、山脈になってる」 こはるは、少しだけ目を伏せた。 「……ですよね」 店の中に、朝の光が入っていた。 雨は上がっている。 窓ガラスについた水滴が、薄い光を受けて光っていた。 外の商店街は、まだ眠っているように静かだ。 たまに軽トラックが通る音がする。 遠くで、八百屋のシャッターが上がる音も聞こえた。 俺は食器を片付けようとした。 すると、こはるが小さく言った。 「あの」 「どうした」 「片付け、ます」 「いい。座ってろ」 「でも」 「微熱の倒れてた人間に皿洗いさせる喫茶店、口コミ最悪だろ」 「口コミ、あるんですか」 「ない」 「……」 「今、ちょっと傷ついたぞ」 こはるは少しだけ困った顔をした。 「すみま――」 「謝罪禁止」 「……気をつけます」 「よろしい」 俺が皿を持って厨房へ戻ると、こはるはソファに座ったまま、店内を見回していた。 古い木のカウンター。 色あせたメニュー表。 柱時計。 小さな観葉植物。 叔父が集めていたコーヒーカップ。 窓際の席に置かれた、誰も読まない雑誌。 こはるは、その全部をゆっくり見ている。 画面越しではない世界を、確かめるみたいに。 「珍しいものでもあるか」 俺が聞くと、こはるは首を横に振った。 「……静かです」 「まあ、客がいないからな」 「そういう意味じゃなくて」 「じゃあ、どういう意味だ」 こはるは少し迷ってから言った。 「誰も、私を呼ばないです」 俺は皿を洗う手を止めた。 「通知も、コメントも、名前も、予定も……ここだと、少し遠いです」 こはるはスマホを見た。 ソファの端に置かれたそれは、昨夜からずっと何度も震えていた。 俺は気づいていた。 でも何も言わなかった。 こはるも気づいていた。 気づいていて、見ないようにしていた。 「電源、切ってもいいんじゃないか」 俺が言うと、こはるの顔色が変わった。 「だめです」 反応が早かった。 「切ったら、連絡が」 「連絡が来るとしんどいんだろ」 「でも、切ったら、もっと」 「もっと怒られる?」 こはるは黙った。 俺は皿を洗いながら、なるべく何でもない声で言った。 「昔さ」 こはるがこちらを見る。 「俺も通知切れなかった。炎上してた時。見れば吐きそうになるのに、見ないともっと怖い。通知が来ないと、今度は裏で何言われてるのか気になる。来ても地獄、来なくても地獄。スマホってすごいよな。板一枚で人間を逃げ場なくするんだから」 こはるは、何も言わない。 けれど、聞いていた。 「だから、切れって簡単には言わない。切れないのも分かる。ただ、せめて音は消せ。震えるだけでも心臓に悪い」 「……もう、消してます」 「じゃあ、その震えを止めるためにタオルで包むか」 「タオル」 「物理対策。意外と馬鹿にできない」 こはるはスマホを見つめた。 少し迷ってから、テーブルの上のタオルを手に取る。 スマホを包む。 それだけのことなのに、彼女の指は震えていた。 「できたな」 俺が言うと、こはるは小さく頷いた。 「……はい」 「えらい」 「子供扱いしないでください」 「じゃあ、大人扱いする。請求書こちらです」 「……子供でいいです」 「判断が早い」 こはるは、タオルで包んだスマホを見つめたまま、少しだけ息を吐いた。 その時、店の表の扉が開いた。 からん、とベルが鳴る。 「おはよー、悠斗兄。昨日の売れ残り弁当――」 元気な声が途中で止まった。 入り口に立っていたのは、弁当屋の娘、日向芽衣だった。 年は二十一。 明るい茶髪を後ろで雑にまとめ、エプロン姿のまま、片手に弁当袋をぶら下げている。 子供の頃から知っているせいで、俺をいまだに「悠斗兄」と呼ぶ。 その芽衣が、ソファのこはるを見た。 こはるも、芽衣を見た。 店内の空気が、ぴたりと止まる。 芽衣はゆっくり俺を見た。 それから、こはるを見た。 もう一度俺を見た。 目が、すっと細くなる。 「悠斗兄」 「待て」 「まだ何も言ってない」 「言う前から顔がうるさい」 「ついに?」 「ついに、とは」 「若い女の子を拾うタイプの事件を?」 「言い方」 芽衣は店の中にずかずか入ってきた。 雨上がりの朝に似合わないくらい、生命力が強い。 「いやいやいや。これは大問題でしょ。朝の喫茶店、ソファ、白いパーカーの美少女、悠斗兄。組み合わせが事件じゃん」 「俺を犯罪要素として数えるな」 「だって悠斗兄、目つき悪いし」 「生まれつきだ」 「あと、過去が重いし」 「否定できないのを混ぜるな」 「あと、女心分かってないし」 「それは佐伯さんにも言われた」 「じゃあ事実じゃん」 「商店街の女たち、俺に厳しすぎないか」 芽衣はこはるの前でしゃがんだ。 こはるは毛布を握りしめ、完全に固まっている。 初対面の明るい人間というのは、弱っている人間にとっては台風みたいなものだ。 俺は間に入ろうとした。 「芽衣、今は――」 「大丈夫。怖がらせない」 芽衣は俺にだけ聞こえる声で言った。 その声は、さっきまでの茶化した調子とは違っていた。 こいつはこういうところがある。 うるさいし、遠慮がないし、人の冷蔵庫を勝手に開けるタイプだが、弱っている相手の扱いは意外とうまい。 芽衣はこはるに笑いかけた。 「おはよう。私は日向芽衣。そこの弁当屋の娘。悠斗兄とは腐れ縁みたいなものだから安心して。変なことしてたら私が殴る」 こはるは、少しだけ俺を見た。 「殴られるんですか」 「殴られない。たぶん」 「たぶんなんだ」 芽衣が即座に突っ込む。 こはるの視線が少し揺れた。 会話の速度についていけていない顔だった。 芽衣は声のトーンを少し落とした。 「名前、聞いてもいい?」 こはるは迷った。 俺が小さく頷くと、彼女は答えた。 「……白瀬、こはるです」 「こはるちゃん。かわいい名前」 「……ありがとうございます」 「年は?」 「十九、です」 「十九」 芽衣は俺を見た。 「悠斗兄」 「だから何もしてない」 「十九だって」 「聞こえてた」 「アウト寄りだよ」 「何がだよ」 「絵面」 「絵面で裁くな」 こはるが小さく口を開いた。 「あの……黒瀬さんは、何も」 「うん。分かってる。悠斗兄、口は悪いけど、たぶん悪い人じゃないから」 「たぶん」 こはるが復唱した。 俺は額を押さえた。 「おい。信用がじわじわ削れてる」 「でも、本当に悪い人じゃないよ」 芽衣はこはるの顔を見て、少しだけ表情を変えた。 たぶん、気づいたのだろう。 こはるの顔色。 痩せた手首。 目の下の影。 人と目を合わせるたびに身構える癖。 芽衣は、弁当袋を掲げた。 「唐揚げ弁当、食べる?」 「え」 「昨日の売れ残り。売れ残りって言うと聞こえ悪いけど、ちゃんと冷蔵してるし、朝ご飯にもいける。悠斗兄のモーニングよりは栄養ある」 「失礼だな。味噌汁出したぞ」 「喫茶店なのに?」 「そこ、みんな引っかかるな」 芽衣は厨房に勝手に入り、電子レンジを開けた。 「温めるね」 「お前、店主の許可」 「許可いる?」 「いるだろ」 「じゃあ許可ください」 「嫌です」 「ありがとう」 「会話が成立してない」 芽衣は勝手に弁当を温め始めた。 こはるは、ぽかんとしている。 たぶん、こういう人間を見慣れていないのだろう。 距離が近い。 遠慮がない。 けれど、悪意がない。 ネットにはあまりいないタイプだ。 温められた唐揚げの匂いが店内に広がった。 こはるの喉が、小さく動いた。 芽衣はそれを見逃さなかった。 「お、いけそう?」 「……さっき、朝ご飯を」 「ちょっとでいいよ。唐揚げは世界平和だから」 「唐揚げが」 「そう。戦争中でも唐揚げ出されたら、一回みんな黙ると思う」 「そんなに」 「少なくともうちの父さんは黙る。口に唐揚げ詰まるから」 「それは物理的にでは」 こはるが、思わず突っ込んだ。 一瞬だった。 でも、確かに突っ込んだ。 芽衣が俺を見る。 俺も芽衣を見る。 こはるは自分で言った後に気づいたらしく、顔を赤くして俯いた。 「……すみません」 「いや、今のはいいツッコミだった」 俺が言うと、芽衣も大きく頷いた。 「うん。才能あるよ、こはるちゃん」 「才能……」 「悠斗兄のボケは面倒くさいから、ちゃんと拾える人少ないんだよ」 「俺はボケてない。人生がボケみたいになってるだけだ」 「それ、自分で言って悲しくない?」 「朝から刺すな」 芽衣はこはるに唐揚げを一つ、小皿に乗せて渡した。 「はい。無理しなくていいから。嫌なら残して」 こはるは小皿を受け取った。 そして、唐揚げをじっと見つめる。 食べていいのか、まだ確認しているような目だった。 芽衣が少し首を傾げる。 「食べていいよ」 その一言で、こはるの指が止まった。 俺は、胸の奥が少しだけざわついた。 こはるは唐揚げを小さくかじった。 噛む。 飲み込む。 目が、ほんの少しだけ丸くなる。 芽衣が嬉しそうに身を乗り出した。 「どう?」 こはるは、小さな声で言った。 「……味、します」 芽衣の笑顔が、一瞬だけ止まった。 俺も、何も言えなかった。 唐揚げがうまいとか、しょっぱいとか、熱いとか。 そういう答えを予想していた。 味がします。 十九歳の女の子が、唐揚げを食べてそう言う。 その言葉の異常さに、芽衣も気づいたのだろう。 けれど、芽衣はすぐに笑った。 いつもの明るさより少しだけ優しい、ちゃんと選んだ笑い方だった。 「そっか。じゃあ、うちの唐揚げ、今日いい仕事したね」 こはるは唐揚げを見つめたまま、頷いた。 「……はい」 「もう一個いく?」 こはるは迷った。 迷って、俺を見た。 「俺を見るな。お前の唐揚げだ」 「……食べても」 「いいに決まってる」 芽衣がすぐに言った。 「食べていいよ。残してもいいし、全部食べてもいい。唐揚げは逃げない」 「……逃げない」 「たぶん。逃げる唐揚げは怖い」 「怖いですね」 こはるは、二つ目の唐揚げを手に取った。 さっきより、ほんの少しだけ早く口に運ぶ。 芽衣はそれを見ながら、俺に視線を寄こした。 説明しろ、という目。 俺は首を横に振った。 今は無理だ、という意味。 芽衣は少し不満そうに眉を寄せたが、それ以上は聞かなかった。 こういうところも、こいつは分かっている。 こはるが唐揚げを食べ終えると、芽衣は弁当のふたを閉めた。 「残りは置いてくね。昼に食べてもいいし、悠斗兄が食べてもいい」 「俺は残飯処理係か」 「違うの?」 「違うと言い切れない自分が嫌だ」 「じゃあ、こはるちゃん。困ったらうちの弁当屋に来て。商店街の入口にあるから。看板にでっかく『日向弁当』って書いてある。唐揚げと卵焼きが売り」 「……はい」 「あと、悠斗兄が変なこと言ったら私に言って」 「変なこと」 「だいたい言うから」 「言わない」 「昨日も源さんに『文句のために喫茶店を維持するな』って言ってたでしょ」 「それは正論だ」 「正論を客にぶつけるのが変なの」 「商店街、俺にだけ言論統制してないか」 芽衣は笑って、店を出ていった。 扉のベルが鳴る。 一気に店が静かになった。 こはるは、芽衣が出ていった扉をしばらく見ていた。 「台風みたいだったろ」 俺が言うと、こはるは少し考えてから首を横に振った。 「……春の風みたいでした」 「詩人か」 「すみません」 「いや、いい表現だと思う。本人に言ったら調子に乗るから言うな」 こはるは、小さく頷いた。 それから、唐揚げが入っていた小皿を見た。 「……日向さん」 「芽衣でいい。あいつ、距離感バグってるから名字で呼ぶと逆に変な顔する」 「芽衣さん」 「うん」 「優しい人ですね」 「うるさいけどな」 「……優しい人は、うるさいんですか」 「静かな優しさもある。うるさい優しさもある。源さんは文句型の優しさ」 「文句型」 「毎日まずいって言いながらコーヒー飲みに来る」 「それは、優しさなんですか」 「たぶん。俺もまだ解析中」 こはるは、毛布の端を握りながら言った。 「黒瀬さんは」 「ん?」 「黒瀬さんの優しさは、何型ですか」 俺は即答できなかった。 そんな分類をされたことがない。 「……棚上げ型?」 「よくないと思います」 「二回目の正論パンチやめろ」 「でも」 こはるは、俺を見た。 「昨日も、今日も、聞かないでいてくれました」 俺は黙った。 「見たのに、見てないって言ってくれました」 心臓が一瞬、嫌な音を立てた気がした。 ばれていた。 まあ、そりゃそうだ。 あの距離で通知を見て、俺の顔が固まらないわけがない。 こはるは馬鹿じゃない。 むしろ、他人の反応には敏感すぎるくらいだ。 俺は、ごまかすのをやめた。 「悪い。見えた」 「……はい」 「見るつもりはなかった」 「分かります」 「分かるのか」 「黒瀬さん、見た時、すごく見てはいけないものを見た顔をしていたので」 「そんな顔してたか」 「はい」 「ポーカーフェイスの才能ないな、俺」 「配信者だったのに」 こはるが言った。 俺は動きを止めた。 こはるも、自分の発言に気づいたように目を伏せる。 店の空気が、また変わった。 昨日から、こはるは何度か俺の過去に触れかけている。 配信者だったんですか。 黒瀬さんは忘れたいことがありますか。 そして今、配信者だったのに。 偶然か。 それとも、知っているのか。 俺はグラスを拭きながら、できるだけ平静を装った。 「まあ、昔な」 「……すみません」 「謝るな。事実だ」 「聞いても、いいですか」 「内容による」 「どうして、やめたんですか」 直球だった。 十九歳の無口な少女は、たまに刃物みたいな質問をする。 俺は笑って逃げようとした。 「店が忙しくて」 「この店、忙しいんですか」 「痛いところを突くな」 「すみません」 「いや、今のは俺の嘘が雑だった」 こはるは黙っている。 俺も黙る。 答える義務はない。 こはるに事情を話す必要もない。 けれど、彼女だけに何も聞かず、自分だけ全部隠すのも違う気がした。 「燃えた」 俺は短く言った。 こはるの目が、少しだけ揺れた。 「ネットで。配信者として。そこそこ派手に」 「……炎上」 「そう。捏造もあった。切り抜きも悪意があった。でも、俺に落ち度がゼロだったかって言われたら、胸張ってそうとは言えない。数字に焦ってたし、態度が悪い日もあったし、自分は大丈夫だって思い上がってた」 言いながら、胃のあたりが重くなった。 この話を誰かにするのは久しぶりだった。 「気づいたら、俺は悪役になってた。説明しても、誰も聞かなかった。謝っても燃えた。黙っても燃えた。知り合いは離れた。仕事も消えた。で、逃げた」 「逃げた」 「そう。立派に逃げた。都会から、この店に」 「……逃げたら、だめなんですか」 その言葉に、俺はこはるを見た。 彼女は真剣な顔をしていた。 俺を慰めようとしているのではない。 自分自身に聞いているようだった。 逃げたら、だめなのか。 誰かに迷惑をかけても。 仕事を飛ばしても。 期待を裏切っても。 生きるために逃げたら、それはだめなのか。 俺は少し考えた。 「だめじゃないと思う」 こはるの指が、毛布を握る。 「思う、ですか」 「断言できるほど、俺は自分の逃げ方に納得してない。でも、逃げなかったら死んでたかもしれない。だから、少なくとも生き残るための逃げは、だめじゃない」 「……生き残るため」 「かっこよく言ったけど、実際は布団にくるまって震えてただけだぞ」 「それでも」 こはるは小さく言った。 「生きてたんですよね」 俺は、返事ができなかった。 月乃こはねの配信で、何度も聞いた言葉が頭をよぎる。 今日も生きててえらいです。 画面の中の彼女は、軽やかにそう言っていた。 でも、目の前のこはるは、それを重いものとして言った。 俺は視線を逸らした。 「まあ、今のところはな」 「今のところ」 「人間、先のことは分からない」 「……そうですね」 こはるは、タオルで包んだスマホに視線を向けた。 そのタイミングで、タオルの中が小さく震えた。 音はしない。 だが、分かる。 こはるの肩が、一瞬で固くなったからだ。 俺も見てしまった。 タオル越しの振動。 たったそれだけで、店内の空気が壊れる。 「見なくていい」 俺が言うと、こはるは首を横に振った。 「見ないと」 「今じゃなくていい」 「今見ないと、もっと」 「怒られる?」 こはるは答えない。 昨日から何度も出てくる言葉。 怒られる。 嫌われる。 迷惑がかかる。 見捨てられる。 こはるの世界は、その四つでできているのかもしれない。 俺は、タオルに包まれたスマホを見た。 「俺が見ようか」 言ってから、すぐに後悔した。 それは踏み込みすぎだ。 案の定、こはるは強く首を振った。 「だめです」 「悪い。今のなし」 「……すみません」 「謝罪禁止」 「……はい」 こはるは、ゆっくりスマホをタオルから出した。 画面を見る。 その瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。 俺は何も聞かないつもりだった。 でも、彼女の手があまりに震えていて、黙っていられなかった。 「白瀬さん」 こはるは返事をしない。 スマホ画面を見つめたまま、呼吸が浅くなっている。 「おい、こはる」 下の名前で呼んでしまった。 こはるの目が少し動く。 俺は手を伸ばしかけて、止めた。 「息。吸え」 「……」 「吸って。吐け。画面じゃなくて、俺を見ろ。いや、俺の顔が嫌なら柱時計でもいい。あの時計、顔みたいで腹立つだろ」 こはるは、ほんの少しだけ柱時計を見た。 「……腹立つ、ですか」 「前から思ってた。絶対こっち見下してる」 「時計が」 「叔父さんの趣味が悪い」 こはるの呼吸が、少しだけ戻る。 俺はゆっくり言った。 「何が来た」 こはるは、スマホを胸に抱えた。 見せたくない。 でも、一人では抱えきれない。 そんな顔だった。 しばらくして、こはるは画面を伏せたまま言った。 「マネージャーさんからです」 「うん」 「今日、昼までに戻らないなら、契約違反として処理するって」 俺は黙った。 「あと、家族にも連絡したって」 こはるの声が、少し震えた。 「お母さんからも、来てます。どうして勝手なことするの、あなた一人の問題じゃない、って。支払いがあるのに、困るって」 支払い。 その言葉が、妙に生々しかった。 娘の体調より先に、支払い。 もちろん、家庭には家庭の事情がある。 俺が勝手に善悪を決められる話ではない。 でも、こはるの顔を見れば、それが彼女にとって救いではないことくらい分かる。 「返信するのか」 「……しないと」 「何て」 「すみません。戻ります。迷惑をかけました。もうしません」 「本心か?」 こはるは、唇を噛んだ。 「本心じゃないと、だめですか」 「だめじゃない。でも、本心じゃない言葉を送り続けるのは、削れるぞ」 「削れても、送らないと」 「誰が決めた」 「……みんな、そうしてます」 「みんなって誰だ」 「他の子も。先輩も。同期も。休んだら謝って、戻って、笑って、また配信して」 「それで壊れたら?」 「代わりがいます」 即答だった。 俺は、腹の奥が冷たくなるのを感じた。 こはるは、同じ調子で続けた。 「私じゃなくてもいいんです。声が似てる子も、若い子も、もっと上手な子もいます。月乃こはねじゃなくても、みんな次の子を見つけます」 「お前は?」 「え?」 「月乃こはねじゃなくなった白瀬こはるは、どうする」 こはるは固まった。 その質問だけ、想定していなかったみたいに。 「……分かりません」 「またそれか」 「だって」 こはるの声が、少しだけ乱れた。 「だって、白瀬こはるなんて、誰も見てないです」 店の中が静かになった。 雨上がりの商店街。 朝の喫茶店。 古い時計の針が進む音。 こはるは、両手でスマホを握りしめていた。 「月乃こはねなら、みんな心配してくれます。待ってるって言ってくれます。好きだって言ってくれます。今日も声が聞けて嬉しいって。でも、白瀬こはるは……何もないです。喋れないし、友達も少ないし、家族にも迷惑かけてばかりで、事務所にも怒られてばかりで」 「怒られてばかりなのは、相手側にも問題あるだろ」 「でも、私がちゃんとできないから」 「ちゃんとって何だよ」 少し声が強くなった。 こはるが肩を震わせる。 俺はすぐに後悔した。 「悪い。怒鳴ったんじゃない」 「……はい」 「ただ、その“ちゃんと”って言葉、危ないんだよ。際限がない。ちゃんと笑う。ちゃんと返す。ちゃんと稼ぐ。ちゃんと期待に応える。ちゃんと壊れない。そんなの全部やってたら、人間の方が先に潰れる」 こはるは、俯いたまま言った。 「でも、黒瀬さんも、やってたんですよね」 痛いところを突かれた。 俺は苦笑した。 「やってた。だから潰れた」 「……じゃあ、私も」 「潰れる前に止まれ」 「止まれないです」 「止まれ」 「無理です」 「無理でも止まれ」 「だから、無理なんです!」 こはるが初めて、声を荒げた。 店内に、その声が響く。 本人も驚いたように目を見開いた。 俺も驚いた。 でも、不思議と嫌ではなかった。 ようやく、彼女の中にあるものが少し外に出た気がした。 こはるは、震えながら続けた。 「止まったら、全部終わります。仕事も、居場所も、ファンの人も、家のお金も、全部。私が止まったら、困る人がいるんです。怒る人がいるんです。がっかりする人がいるんです。戻らなきゃいけないんです。笑えなくても、声が出なくても、戻らなきゃ……!」 そこまで言って、彼女の声が途切れた。 目に涙が浮かんでいる。 けれど、泣き方も分からないみたいに、涙だけが頬を落ちた。 俺は何も言えなかった。 言葉を間違えたら、たぶん彼女はまた閉じる。 だから、少し間を置いた。 沈黙が落ちる。 けれど今回は、沈黙から逃げなかった。 やがて俺は、できるだけ静かに言った。 「白瀬さん」 「……」 「今日だけでいい」 こはるは、涙の残った目で俺を見る。 「今日だけ、戻るのをやめろ」 「……」 「明日のことは明日考えろ。契約とか、事務所とか、家族とか、全部なくなるわけじゃない。面倒は来る。たぶんすごく来る。だけど、今日倒れた人間が今日戻って笑ったら、本当に壊れる」 「……でも」 「でもは聞いた。五回くらい聞いた」 「そんなに」 「体感では十五回」 「……」 「今日だけだ。今日だけ、月乃こはねを休め。白瀬こはるでいろ」 こはるの目が揺れる。 「白瀬こはるでいて、何をすればいいんですか」 「飯食って、寝て、トイレ行って、水飲んで、たまに息をする」 「……それだけ」 「人間の基本セットだ。意外と難しい」 「配信は」 「しない」 「連絡は」 「最低限。今すぐ返さなくていい。返すなら、体調不良で今日は動けません、だけでいい。謝罪文コンテストは開催しない」 「怒られます」 「それは明日の俺たちが考える」 「俺たち?」 こはるが聞き返した。 俺は言ってから、自分でも少し驚いた。 俺たち。 勝手に巻き込まれているのか、勝手に巻き込まれに行っているのか、もう分からない。 でも、訂正するのも違った。 「そう。俺たち」 「……どうして」 「さあな」 俺は肩をすくめた。 「たぶん、雨の日に人を拾うと、責任が発生するんだろ」 「そんな法律、ありますか」 「喫茶こもれび特別法」 「雑です」 「うちの経営方針だって言っただろ」 こはるは、涙を拭いた。 そして、少しだけ笑った。 本当に少しだけ。 「……黒瀬さん」 「ん?」 「黒瀬さんは、変です」 「よく言われる」 「でも」 こはるはスマホを見た。 それから、少し迷って、画面に短い文章を打ち込んだ。 送信前に、俺を見る。 「これで、いいですか」 画面には、こう書かれていた。 『体調が悪く、今日は動けません。明日以降、改めて連絡します』 謝罪の言葉はなかった。 言い訳もなかった。 必要最低限の、ただの事実だった。 それだけなのに、こはるの指は震えていた。 「いいと思う」 「怒られますよね」 「たぶんな」 「……たぶん」 「でも、お前が今ここで倒れるよりはいい」 こはるは、長い時間、画面を見つめていた。 送信ボタンの上に指を置く。 一度、引っ込める。 また置く。 そして、目を閉じるようにして押した。 送信済み。 その表示が出た瞬間、こはるは力が抜けたようにソファにもたれた。 「できたな」 俺が言うと、こはるは小さく頷いた。 「……はい」 「えらい」 「子供扱いしないでください」 「大人扱いすると請求書が出るぞ」 「……子供でいいです」 「さっきも聞いた流れだな」 こはるは目を閉じた。 今度は眠そうというより、疲れ切った顔だった。 たった一通のメッセージを送るだけで、これほど消耗するのか。 俺は毛布をかけ直した。 「寝ろ。今度こそ」 「……黒瀬さん」 「何だ」 「起きたら、まだここにいますか」 俺は、少しだけ息を詰めた。 その質問は、子供みたいだった。 だが、こはるにとっては冗談ではないのだろう。 目を閉じて、次に開いた時、誰かがまだいるかどうか。 たぶん彼女は、それを信じることに慣れていない。 「いるよ」 「……お店は」 「俺の店だぞ。俺がいなくてどうする」 「出かけたり」 「しない。少なくとも、お前が寝てる間は」 「……約束ですか」 「約束」 こはるは、小さく頷いた。 「……じゃあ、少しだけ寝ます」 「少しじゃなくていい」 「……はい」 こはるは毛布に顔を埋めるようにして、目を閉じた。 数分もしないうちに、寝息が聞こえ始める。 俺はその寝顔を見て、深く息を吐いた。 保護者か、俺は。 いや、保護者というには頼りない。 自分の人生すら保護できていない男が、誰かの保護者を名乗るのは無理がある。 それでも、今この店にいる大人は俺だけだった。 俺は厨房に戻り、洗い物の続きをした。 水の音。 皿が触れる音。 外で誰かがシャッターを上げる音。 商店街が、少しずつ目を覚ましていく。 その音の中で、タオルに包まれたこはるのスマホが、また震えた。 今度は一度では終わらなかった。 二度。 三度。 四度。 俺は見ない。 見ないと決めた。 けれど、画面が少しだけ覗いていた。 通知の一部が目に入る。 【マネージャー:勝手な判断は困ります】 【母:あなた一人の問題じゃないのよ】 【不明な番号:今どこにいる?】 【神谷レン:こはねちゃん、連絡取れないって本当?】 最後の名前を見た瞬間、俺の手から皿が滑りかけた。 神谷レン。 俺を炎上の底へ突き落とした、元配信仲間。 あいつの名前が、こはるのスマホに表示されていた。 俺は蛇口を止めた。 店の中が、急に静かになる。 ソファでは、こはるが眠っている。 何も知らずに。 いや、何も知らないのは俺の方かもしれない。 月乃こはね。 白瀬こはる。 事務所。 家族。 案件。 そして神谷レン。 ただの偶然にしては、あまりに嫌な名前が並んでいる。 俺は濡れた手をタオルで拭き、奥歯を噛んだ。 「……なんで、お前が出てくるんだよ」 返事はない。 タオルに包まれたスマホだけが、また一度、短く震えた。 喫茶こもれびの朝は、静かだった。 けれど、見えないところで、もう何かが燃え始めている。 そんな嫌な予感がした。第45話 久しぶり。ちゃんと話せないかな 久しぶり。 その四文字が、いちばん嫌だった。 責めたいわけじゃない。 心配している。 誤解を解きたい。 君のためにも、彼女のためにも。 そういう言葉は、まだ構えられる。 来るぞ、と分かる。 優しい顔をした縄だと、こっちも分かっている。 首にかかる前に、少しは身を引ける。 でも。 久しぶり。 その言葉だけは、違った。 昔の扉を、勝手に開けてくる。 喫茶こもれびのカウンターに、俺のスマホが置かれている。 画面には、神谷レンからのDM。神谷レン:久しぶり。ちゃんと話せないかな。いろいろ大変なことになっているみたいで心配してる。昔のことも、今のことも、誤解があるなら解きたいと思ってる。僕は君を責めたいわけじゃない。むしろ、君のためにも、彼女のためにも、ちゃんと向き合いたい。 何度読んでも、文字は変わらない。 優しい。 柔らかい。 乱暴な言葉は一つもない。 だからこそ、吐き気がする。 怒鳴られた方がまだ楽だった。 罵倒された方が、俺はたぶん怒れた。 ブロックもできた。 スクショを保存して、「見ろ、こいつはこういう奴だ」と言えた。 でも、これは違う。 これを他人に見せたら、たぶん半分くらいの人は言う。 話せばいいじゃん。 向こうは心配してるだけじゃん。 責めたいわけじゃないって言ってるじゃん。 逃げてるのはそっちじゃないの? 分かっている。
第44話 商店街、二度目の防衛会議 商店街の会議というものは、だいたい始まる前から少し揉めている。 椅子が足りない。 誰がどこに座るか分からない。 会議用の机ががたつく。 お茶を出すのか白湯を出すのかで揉める。 八百屋の親父さんが「俺は立ってる方がいい」と言いながら、結局いちばん邪魔な場所に立つ。 日向弁当の母さんが「座ってください、邪魔です」と笑顔で刺す。 模型店の朝比奈さんはなぜか小さな工具箱を持ってきていて、ゲーセンの朝日さんは「会議って何分くらいっすか」と最初から帰りたそうな顔をしている。 そして、源三さんは入口近くで腕を組み、全員を見渡して言った。「今日は遊びじゃない」 その一言で、一瞬だけ空気が締まった。 締まったのだが、八百屋の親父さんがすぐに言う。「じゃあ、この大根は遊びじゃねえな」「何で大根を持ってきたんですか」 俺は思わず聞いた。 昨日の大根とは別の大根だった。 一本ではない。二本。 会議机の端に、白く長く横たわっている。「源さんが昨日、大根を持ってったろ。だったら今日は俺も持ってくるだろ」「その理屈が分からない」「商店街ってのは流れだ」「大根の流れ、要ります?」 芽衣が横から言うと、八百屋の親父さんは真顔で返した。「要る。大根は煮てもおろしても使える」「会議の汎用性みたいに言わないでください」 こはるが、窓際の席でホワイトボードに小さく書いた。【大根は強い】 俺は頭を抱えた。「それ、昨日から残ってるやつだろ」 こはるは少しだけ目をそらした。【記録です】「何で
第43話 誰かを責めるためではありません 誰かを責めるためではありません。 その言葉を見た瞬間、俺は思わず笑いそうになった。 笑える状況ではない。 むしろ、胃の奥は冷えている。 手のひらもじっとりしている。 喫茶こもれびのカウンターには、白湯と、資料と、スマホ避難箱がある。 それでも、笑いそうになった。 人間は、本当に嫌なものを見た時、怒る前に笑いそうになることがある。 誰かを責めるためではありません。 便利な前置きだ。 そう言っておけば、その後に何を言っても、自分は責める側ではなくなる。 責めていない。 心配しているだけ。 攻撃していない。 向き合おうとしているだけ。 追い詰めていない。 守ろうとしているだけ。 神谷レンは、そういう場所に立つのが昔から上手かった。 自分は少し高いところに立つ。 優しい顔をする。 悲しそうな声を出す。 そして、周りが勝手に火を運ぶのを待つ。 夜。 こもれびは閉店していた。 札は準備中。 カーテンは半分下ろしてある。 店内の明かりは少し落として、テーブルの上には白湯が人数分。 喫茶店なのに、全員白湯。 もう、この店は何屋なのか分からない。 だが、今日はコーヒーを飲む気にはならなかった。 苦味を増やす余裕がない。 俺たちは神谷レンの配信を直接見ない。 真柴さんが確認し、必要な部分だけ共有する。 そう決めていた。 画面の向こうの真柴さんは、いつもより無表情だった。 無表情というより、表情を消している。 余
第42話 火を運ぶ人たち 火をつけたのは誰か。 その問いは、思ったより単純ではなかった。 昔の俺は、炎上した時、ずっと犯人を探していた。 誰が最初に切り抜いたのか。 誰が悪意ある字幕をつけたのか。 誰が拡散したのか。 誰が俺を笑ったのか。 誰が、俺の言葉を俺のものではない形にしたのか。 でも、古い夜更かしから届いた資料を見て、少しだけ分かってしまった。 火事は、マッチ一本で起きるわけではない。 乾いた木がある。 風がある。 油を持ってくる人間がいる。 火種を拾う人間がいる。 遠くから「大変だ」と言いながら、その火を見世物にする人間がいる。 そして中には、自分では火をつけないのに、火種を落とさず運ぶのが妙に上手い人間がいる。 神谷レンは、たぶんそういう人間だった。 朝の喫茶こもれびは、昨日より静かだった。 静かというより、みんなが声の出し方を探している感じだった。 カウンターの上には、真柴さんが整理した時系列表が置かれている。 俺の昔の炎上。 神谷レンの発言。 その直後に出る切り抜き。 暴露系配信者の配信。 まとめアカウントの拡散。 神谷レンの「攻撃は望んでいません」。 さらに広がる動画。 そして今。 匿名ラジオ。 月乃こはね疑惑。 黒い車。 逆ギレ切り抜き。 責任から逃げるな。 誰かに言わされていないか。 線を引くと、嫌なほど似ていた。 もちろん、それだけで証拠にはならない。 似ている。 不自然だ。 タイミングが重なっている。 それだけでは、まだ誰かを裁け
第41話 古い夜更かしからの資料 資料、という言葉は乾いている。 紙の匂いがする。 ファイル名がついていて、日付があって、どこか感情から遠い場所に置かれている気がする。 だが、古い夜更かしから届いたそれは、乾いていなかった。 むしろ逆だった。 開いた瞬間、ずっと昔に燃えたはずの夜が、まだ煙を吐いているのが分かった。 朝の喫茶こもれびは、開店前から重かった。 窓の外では、八百屋の親父さんがトマトの箱を並べている。 日向弁当の方からは、揚げ油の音がかすかに聞こえる。 ゲームセンターのシャッターは半分だけ上がり、いつもの古い筐体の光が、眠そうに床を照らしていた。 世界は普通に朝をやっている。 それなのに、こもれびのカウンターの上には、俺の過去が置かれていた。 スマホの画面。 古い夜更かしからのDM。古い夜更かし:おはようございます。昨日の続きです。資料を送ります。見たくないものもあると思います。すぐに全部見なくても大丈夫です。でも、消さずに残しておいてください。 その後に、いくつかの画像と、テキストファイルが送られていた。 俺は、まだ開けずにいた。 コーヒーも淹れていない。 白湯だけがある。 こはるは窓際の席に座っている。 今日は声を使わない。 昨日も使っていない。 真柴さんの業務指示は継続中だ。 ホワイトボードには、短くこう書かれている。【無理なら、見なくていいです】 芽衣は、開店前の日向弁当から抜けてきた。 手には補給袋。 顔は真剣。 髪は少し跳ねている。
第40話 誰かに言わされていないか 誰かに言わされていないか。 その言葉は、朝の喫茶こもれびに、昨日の白湯より冷めた温度で置かれていた。 神谷レンの投稿。「彼女がそう言うなら、なおさら心配です。 彼女自身の言葉なのか、誰かに言わされていないか。 僕はそこを、ちゃんと確認したいと思っています」 ちゃんと。 また、その言葉だ。 ちゃんと確認したい。 ちゃんと説明しなさい。 ちゃんと向き合ってほしい。 ちゃんと責任を取れ。 ちゃんと、ちゃんと、ちゃんと。 ちゃんと、という言葉は便利だ。 それを口にした人間を、少しだけ正しい側に置いてくれる。 俺はスマホを見ながら、指先が冷えていくのを感じていた。 昨日、こはるは声を出した。 短い音声投稿だった。 自分の名前を出さずに。 俺の名前も出さずに。 誰かを攻撃せずに。 それでも、はっきりと自分の言葉で言った。 この人は、完璧な人ではありません。 でも、今ここで、白湯を出してくれた人です。 私は、この人に救われました。 だから、この人を燃やすために、私の名前を使わないでください。 それを、神谷レンは疑った。 言わされているのではないか。 その一言で、こはるの声はまた、彼女のものではなくなりかけていた。 いや、違う。 奪おうとしている。 あいつは、心配の顔で、こはるの言葉の持ち主を奪いにきた。「悠斗兄」 芽衣の声がした。 俺はスマホを見たまま答える。







